👩 妻のひとこと
夫から「家具屋に付いてきて」と言われた朝、私には嫌な予感がありました。夫が家具屋に行く日は、椅子が増えて帰ってくる日です。そして案の定、椅子は増えました。ただ今回、増やしたのは夫だけではありませんでした——車で1時間の家具屋で起きたことを書きます。
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← 前回(第9話):カイ・ボイスンのカトラリーが届いた——モンキーを調べていたら、ずっと前から作られていたものだった
ダイニングの椅子は3脚決まっていた
我が家のダイニングの椅子は、HIROSHIMA(マルニ木工)、Yチェア(カール・ハンセン&サン)、PP58(PPモブラー)の3脚に決まっていました。とはいえ、この時点で実際に届いていたのはHIROSHIMAだけ。Yチェアは第2話で注文済みで、届くのは数ヶ月先。PP58は第6話で注文を済ませたばかりで、納品はさらに先です。メーカーも形もばらばらですが、樹種はオーク材で揃えています。
残るは4脚目だけ。夫の候補は、セブンチェア、J39、カイ・クリスチャンセンのNo.42の3つでした。セブンチェアは樹脂の成形椅子。オーク材で揃えてきた3脚とは、素材がちがいます。口には出しませんでしたが、最終的にこれは選ばれないだろう、と私は読んでいました。夫は「樹種で揃える」と言い出したら、まず曲げない。これまでの数ヶ月で、私はその癖を学んでいました。
「家具屋に付き合って」と言われた日
ある日の朝、夫から言われました。
「たぶん」が付いている時点で、嫌な予感は確信に変わりました。行き先は、同じ県内の、車で1時間の家具屋。前回PP58を買った店とは別の店です。家づくりを始めるまでは、家具屋というものが、こんなにたくさんあることを知りませんでした。そして、こんなに頻繁に通うことになるとも、思っていませんでした。
店ではマルニ木工フェアが開催されていました。我が家にあるのと同じHIROSHIMAが並んでいます。夫はその一脚の前で、しばらく動きませんでした。「あ、これ、うちの子だね」とでも言いそうな顔をしています。
座り比べ——No.42、J39、PP58、PP68
夫は店内の椅子を一脚ずつ試座していきました。すでにHIROSHIMA・Yチェア・PP58の3脚は、それぞれデザインの違う椅子です。今日の方針は、4脚目も、その3脚とはさらに別のデザインにすること。
まず、カイ・クリスチャンセンのNo.42。背もたれが体の動きにあわせて、ゆるやかに追随します。座り心地が良く、見た目も整っていました。
次に、ボーエ・モーエンセンのJ39。第6話でPP58を購入したお店でも、社長さんに紹介されて夫は座っています。今回も腰を下ろすと、あのときと同じく背筋が伸びる感触があったそうです。
そして、先日購入を決めたPP58も展示されていました。我が家の分はまだ届いていません。夫は展示品に改めて腰を下ろし、広めの背もたれと革張りの座面の感触を確かめていました。
PP58の隣に、もう一脚、よく似た椅子が並んでいました。
PP58の隣に、PP68が並んでいた
▷ 1987年、ウェグナー73歳の「最後の基本ダイニングチェア」
PP58/PP68は、ハンス・J・ウェグナーが73歳の1987年に手がけた一脚で、PPモブラー社が「final basic chair(最後の基本ダイニングチェア)」として位置づけているシリーズです。PP58とPP68の違いは座面のみ。PP58は革または布の張り座面、PP68はYチェアと同じペーパーコード座面で、フレーム・脚・背もたれの構造は共通です。背もたれと肘掛けは、無垢材を蒸して曲げた一枚もの(曲げ木)で作られています。
▷ ペーパーコードという座面
PP68の座面に使われているペーパーコードは、紙を撚って作られた紐を、職人が手作業で編み込んで仕上げる素材。Yチェアの座面と同じ素材です。空気が通り抜ける構造のため夏も蒸れにくく、張り替えは10〜15年が目安。張り替え自体は、PPモブラーが対応しています。
▷ PPモブラーの工房製作と納期
PPモブラーはデンマークの小さな工房で、一脚ずつ職人が手仕事で組み上げます。Yチェアを手がけるカール・ハンセン&サンのような工場規模の量産はしないため、生産量は限られます。価格はYチェアより高めで、納期は仕様や時期にもよりますが、数ヶ月から半年ほどを見込む必要があります。
夫はPP68に腰を下ろすと、しばらく考えてから、こう切り出しました。
「来週から値上げ」のひと言
夫が考え込んでいるあいだ、店員さんが少し席を立ち、戻ってきて、こう付け加えました。私は内心で、来るぞ、と身構えました。これまでの椅子事件で覚えたパターンです。夫が「考え込む」段階に入ると、店員さんから一押しの情報が出てくる。それはたいてい、値段か、納期か、限定か、のどれかでした。
この一言で、夫はPP68に決めると言いました。第7話でアルテックのスツール60キヴェットを買ったときも、「創業90周年で今しか買えない」という店員さんの説明が決め手になっています。「限定」「●●周年」「来週から値上げ」——夫はこの種の言葉に弱い。たぶん、世界中の夫が弱いのだと思います。
👩 妻のひとこと
「たぶんない」と即答できる夫を、私はもう半分尊敬しています。椅子って、そんなに簡単に買うものだっけ?——とは思うのですが、店頭で並ぶPP58とPP68を見ていると、4脚揃ったときの構成として悪くない気もしてくる。止める言葉は、結局出てきませんでした。たぶん、私も同じ船に乗っているのです。
「足をカットすることもできます」
夫がPP68と決めかけたところで、店員さんからもうひとつ提案がありました。
店頭の椅子は、靴を履いたまま試座します。自宅では靴を脱ぐぶん、座面の高さの感じ方が変わってしまう——その先回りの配慮でした。なお、この数ヶ月後にYチェアが我が家に届き、自宅で靴を脱いだ夫が「足がつかない」と苦笑いすることになるのですが、それはまた別の日の話です。
夫はそのあと、靴を脱いだり履いたりしながら、PP68に何度も座り直していました。
最終的に、夫は足をカットしないことを選びました。理由はふたつ。ひとつは、PP58と座面高さが変わってしまうこと。もうひとつは、ウェグナーがデザインしたままの椅子に座りたかったこと。これで、ダイニングの椅子4脚が決まりました。PP68の納品は数ヶ月先になります。
伝票待ちの店内で、一脚に目が止まった
店員さんが「伝票を作成しますので、少々お待ちください」と、奥に下がっていきました。待つあいだ、私たちは店内をゆっくり歩いて回ることにしました。今思えば、これがいけませんでした。家具屋で「ちょっと見てくる」は、危険な信号です。私はそれを、夫を眺めるたびに学んできたはずなのに。
歩いているうちに、一脚の椅子の前で、私の足が止まりました。木のフレームに帆布が張られた折りたたみ椅子。見覚えがある気がします。どこで見たんだっけ。と、考えるよりも前に、口が動いていました。
第3話で訪れた、谷口工務店の彦根の平屋モデルハウスに、YチェアやAJランプと並んで置かれていた椅子です。あのときは夫の説明を、半分聞き流していました。「ふうん、新居さんね」と相槌を打って、その先は記憶に残していなかったのです。今日は、私のほうが先に椅子に近づいていきました。半年前の自分には、考えられないことです。
改めて座ったら——「これいいね」
改めて、ニーチェアXに腰を下ろしました。帆布の座面がゆっくり沈み込み、背中を預けると、頭までそのまま支えられます。「これいいね」と、思わず声が出ました。出た瞬間に、しまった、と思いました。声が大きすぎたのです。夫の耳に届かないわけがありません。
吉村順三デザインの「たためる椅子」は、第3話の大津百町スタジオで出会ったあと、夫がネットで注文しています。届くのは10ヶ月以上先。それでも、置く場所のあてはまだありません。
口に出したそばから、私はもう、この椅子を連れて帰る側に回っていました。十分前まで、私は夫を止める側だったはずです。たった一脚に座っただけで、立場が入れ替わってしまった。家具屋の魔法か、夫の感染力か、あるいは私の中にも、最初からその種があったのか。今日の言い訳を考えるのは、また帰り道にすればいい。
ニーチェアX——1970年生まれの日本のロングセラー
▷ 新居猛と「カレーライスのような椅子」
ニーチェアXは、徳島の家具デザイナー新居猛(にい たけし、1920–2007)が1970年に発表した折りたたみ椅子です。映画監督が座るディレクターズチェアから着想を得たといわれます。「多くの人に愛されるカレーライスのような椅子」を目指したと本人が語っており、約6.5kgの軽さと、折りたためる機能性と、手の届く価格を兼ね備えて生まれました。
▷ MoMAパーマネントコレクション
発表後、国内外で高い評価を獲得し、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のパーマネントコレクションに収蔵されています。デンマークやイタリアの名作椅子と並んで収蔵された、数少ない日本の椅子のひとつです。
▷ Shikiriシリーズ
標準仕様の持ち手はバーチ材ですが、Shikiri(しきり)シリーズは持ち手をオーク材にしたバリエーション。座面と背の帆布も、日本の伝統建築から着想を得たグレートーンの特別織りに変えられています。
▷ 国内製造と納期
ニーチェアXは、現在も藤栄(FUJIEI)が新居猛のライセンスを受けて、日本国内で製造販売を続けています。我が家の場合、Yチェアの納期が4〜6ヶ月、PP58が半年、PP68が数ヶ月、吉村順三のたためる椅子が10ヶ月以上と各店で告げられたのに対し、ニーチェアXは約1ヶ月。同じ国内製造の吉村順三のたためる椅子が10ヶ月以上待ちであることを考えると、生産国の差というより、量産体制が整っているかどうかの差のようです。
バーチかオークか、ロッキングかそうでないか
展示品の持ち手はバーチ材でした。スタッフの方から、持ち手がオーク材のShikiriシリーズもあると教えてもらいました。グレートーンの帆布に、オーク材の肘掛け。ダイニングの4脚をすべてオークで揃えていると話すと、夫はあっさり言いました。
PP68を選んだのと、同じ理屈です。形は違っても、樹種をオークで揃える。北欧の椅子4脚に、日本の名作1脚。それでも、樹種だけは揃えておく。
ニーチェアXには、通常版とロッキングの2種類があります。両方を座り比べてみました。ロッキングのほうは、重心を後ろに預けるとゆるやかに揺れ、前に体を倒すと、その動きがそのまま自然な立ち上がりに繋がっていきます。立ち座りのしやすさで、夫婦の意見が一致しました。迷いはありません。ロッキングに決まりました。
納期は約1ヶ月。我が家の場合、Yチェアが4〜6ヶ月、PP58が半年、PP68が数ヶ月、吉村順三のたためる椅子が10ヶ月以上と告げられました。それらと並べると、ニーチェアXだけが格段に早く届きます。ただ、同じ国内製造でも吉村順三の椅子は10ヶ月以上待ちなので、生産国の差というより、量産体制が整っているかどうかの差のようでした。
伝票を2枚、抱えて帰った日
伝票は2枚になりました。PPモブラーのPP68(オーク/ソープ仕上げ/ペーパーコード/足カットなし)と、藤栄のニーチェアX ロッキング(Shikiri/オーク材ハンドル)。受け取った夫は、伝票を2枚そろえて軽く眺め、財布のあたりを一度叩いてから、こちらを見てにっこりしました。「今日は、付き合ってもらってありがとう」と言いたいのか、「今日は、君も同じ船だね」と言いたいのか、判別がつきません。たぶん、両方です。
帰りの車の中、夫はずっと機嫌が良さそうでした。私は、助手席で数を数えていました。HIROSHIMA、Yチェア、PP58、PP68、ニーチェアX、スツール60キヴェット、吉村順三のたためる椅子——届いた椅子、注文済みの椅子、これから届く椅子。新居に置く分だけで、片手はすでに足りません。夫のアーロンチェアは職場に置くので、ここには入れていません。土地はまだ決まっていません。住む場所が決まる前に座る場所だけ揃えていく我が家を、誰かに胸を張って説明できるかと言えば、できません。この順番はやっぱり、どこかおかしい。それでも、椅子のほうから先に揃っていくのが、我が家の今の順番です。間違いのままにしておく日が、今日のような日なのでしょう。
まとめ
- ダイニングの椅子は3脚決まっている(HIROSHIMA・Yチェア・PP58)。樹種はすべてオーク材。届いているのはHIROSHIMAだけで、YチェアとPP58は注文済・配送待ち。4脚目の候補はセブンチェア・J39・カイ・クリスチャンセンのNo.42
- 夫から「家具を見に行きたい」と誘われ、同じ県内・車で1時間の店へ。前回PP58を買った店とは別の店
- 店ではマルニ木工フェアが開催されていた
- No.42、J39、PP58を座り比べ、PP58の隣にPP68が並んでいた
- 夫「PP68なら、ペーパーコードでYチェアと揃う。座面以外はPP58と同じ」
- 店員「PPモブラーは来週から値上げになります」のひと言で、夫はPP68に決定
- 店員から足カットの提案。夫は「PP58と高さが変わる」「ウェグナーがデザインしたままがよい」と、カットなしを選択
- 伝票待ちの店内で、妻が一脚に目を留める。「これ、彦根の平屋にもなかった?」——ニーチェアX。第3話で夫が説明してくれた椅子に、今度は妻が先に気づいた
- 「これいいね」「買ってあげようか」「椅子って、畳むものではなくて座るものだよね……」のやりとりを経て、Shikiriシリーズ(オーク材ハンドル)のロッキングに決定。納期は約1ヶ月
- 我が家の場合、PP68の納期は数ヶ月、ニーチェアXは約1ヶ月と告げられた。同じ国内製造でも吉村順三の椅子は10ヶ月以上待ちで、量産体制の有無が納期に出るようだ
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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💬 よくある質問
- Q. PP58とPP68の違いは何ですか?
- A. どちらも1987年にハンス・J・ウェグナー(当時73歳)がデザインし、PPモブラーが「最後の基本ダイニングチェア(final basic chair)」として製作しているシリーズです。フレーム・脚・背もたれの構造は同じで、違いは座面のみ。PP58は革または布の張り座面、PP68はYチェアと同じペーパーコード座面です。樹種や仕上げは複数の選択肢があります。
- Q. ニーチェアXのShikiriシリーズはどこが違いますか?
- A. 標準モデルの持ち手はバーチ材ですが、Shikiriシリーズはオーク材の持ち手を採用。座面と背の帆布も特別織りで、日本の伝統建築をイメージしたグレートーンに仕上げられています。北欧家具などオーク系の家具と並べたい場合に選びやすい仕様です。
- Q. ダイニングチェアの足のカットはお願いできますか?
- A. 取扱店や椅子によって異なりますが、完成した椅子の脚を数センチ短くカットして、座面高さを下げる対応をしてくれるお店があります。デザインバランスがわずかに変わる点と、テーブル天板下のクリアランス・他の椅子との高さ差なども含めて、購入前に相談すると安心です。
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